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ニューヘイブン (コネチカット州) : ミニ英和和英辞書
ニューヘイブン (コネチカット州)[す, しゅう]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ちょうおん]
 (n) long vowel mark (usually only used in katakana)
: [す, しゅう]
 (n) sandbank

ニューヘイブン (コネチカット州) : ウィキペディア日本語版
ニューヘイブン (コネチカット州)[す, しゅう]

ニューヘイブン(、 ヌー・イヴァン)は、アメリカ合衆国コネチカット州南部に位置する都市。人口は129,779人(2010年国勢調査)で、ブリッジポートに次ぐ州第2の都市である。ニューヘイブン郡1郡からなる都市圏は862,477人(2010年国勢調査)の人口を抱える〔American FactFinder . U.S. Census Bureau. 2011年.〕。
ニューヘイブンはイェール大学がキャンパスを構える学術都市としてつとに有名である。また、市内にハルニレ(エルム)の木が多く立っていることから、''The Elm City''(エルムの街)という別名を持っている。このハルニレをはじめとした緑の多い、全米最初の計画都市のひとつとしても知られている。
ニューヘイブンは大統領ゆかりの街でもある。ジョージ・ウォーカー・ブッシュは父ジョージ・ハーバート・ウォーカー・ブッシュがイェール大学在学中にこのニューヘイブンで生まれた。ビル・クリントンは、イェール大学のロー・スクール在学中にヒラリー・クリントンと出会い、このニューヘイブンで暮らした。
変わったところでは、ニューヘイブンはイタリア系移民が多く住んでいたことから、アメリカ合衆国におけるピザ発祥の地のひとつとしても知られる(Frank Pepeが有名)。また、イェール大学の学生が''Frisbee''という社名の入ったパイ皿を逆さにして投げて遊んでいたことがフライングディスク(フリスビー)の原型となったことから、フリスビー社が本社を構えていたブリッジポートとともに、フライングディスク発祥の地とも呼ばれている。
== 歴史 ==

=== 植民地時代 ===
ヨーロッパ人が入植する前は、この地にはクィニピアック族(Quinnipiack)のネイティブ・アメリカンが住んでいた。クィニピアック族は湾の奥に村をつくり、沿岸では魚を釣り、内陸ではトウモロコシを栽培していた。1614年、この地にオランダ人がやってきて、地元のクィニピアック族とビーバーの毛皮の取引を始めた。しかし取引は安定せず、オランダ人はこの地に入植するには至らなかった。

1638年4月、イングランド人牧師ジョン・ダベンポート(John Davenport)とロンドンの商人セオフィラス・イートン(Theophilus Eaton)に率いられ、500人の清教徒たちがマサチューセッツ湾植民地を発ち、船でこの地にたどり着いた。湾が天然の良港であったため、彼らはこの地にマサチューセッツを超える宗教コミュニティを築くことを望み、都市計画を立てた。一方、クィニピアック族は近隣に住むペコット族(Pequot)の攻撃から自分たちを守ることを条件に、入植者たちに土地を売り払った。
1640年頃までには、町の神政府と碁盤の目のように区画された街路に象徴される都市計画が実行に移されていた。また町の名もクィニピアックからニューヘイブンに改められた。町はニューヘイブン植民地の主都となった。この頃はニューヘイブンはハートフォードを中心とするコネチカット植民地とは別個に存在していた。しかし、1646年にニューヘイブン植民地は経済危機に見まわれた。イングランドに向けて貨物を満載した船が植民地に戻らなかったのである。この事件によりニューヘイブンの貿易拠点としての地位は低下し、ボストンやニューアムステルダム(現在のニューヨーク)に大きく水を空けられることになった。
1660年、ダベンポートの願いは遂に叶い、その3年前に死去したエドワード・ホプキンスの遺産約1,000ポンドを投じてホプキンス学園が創立された。1661年チャールズ1世の死亡宣告書に署名した判事がチャールズ2世に「国王殺しの大罪人」として追われ、このニューヘイブンに逃げてきた。ダベンポートはこの3名の判事をかくまい、町の北西に連なるウェスト・ロックに住まわせた。現在のニューヘイブンでは、これらの判事は''The Three Judges''と呼ばれている。
1664年、イングランドの政治的圧力により、ニューヘイブン植民地はコネチカット植民地に併合された。1701年にニューヘイブンはハートフォードと共にコネチカット植民地の主都となった。この重都制はコネチカットが州に昇格した後も1873年まで続いた。この頃のニューヘイブンは農業を主とした町であった。しかし、1716年イェール大学が創立地のオールド・セイブルック(Old Saybrook)から移ってくると、ニューヘイブンはハーバード大学ケンブリッジ同様、学術都市としての地位を確立していった。
1世紀以上にわたって、ニューヘイブンの市民はフレンチ・インディアン戦争などでイギリス軍と戦ってきた。やがて独立戦争が開戦した。1775年4月23日、''Governor's Foot Guard''(総督の足元の護衛)と呼ばれるニューヘイブンの植民地軍がイギリス軍に苦しめられるようになると、彼らは植民地軍の大尉ベネディクト・アーノルドBenedict Arnold)の指揮の下に火薬庫に押し入って武装し、ケンブリッジに向けて3日間にわたる行進を始めた。他のニューヘイブンの植民地軍は町に残り、ケンブリッジへの道中にニューヘイブンに泊まっていたジョージ・ワシントンの警護にあたった。この4月23日は、ニューヘイブンでは''Powder House Day''(火薬庫の日)と呼ばれ、祝われている。
やがてイギリス軍は当時人口3,500人ほどだったこの町に攻め入ってきたが、ニューイングランドの他地域ほどには被害を受けなかった。そのため、ニューヘイブンには植民地時代の建物や街並みの多くが残されている。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「ニューヘイブン (コネチカット州)」の詳細全文を読む




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